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日本のラグビーの黎明期と学習院の関り

1.日本のラグビーにおけるクラーク氏と田中銀之助氏

 学習院とラグビーの関りを語るに当たって、日本のラグビー競技の発展に貢献した田中銀之助と高木喜寛の二人を忘れてはならない。日本で最初にラグビーを始めたのは慶応義塾大学であるが、明治32年にこの競技を伝えたクラーク教授はイギリスオックスフォード大から帰朝したばかりの田中銀之助の助けを借りて普及に努めた。そしてこの田中銀之助が学習院の出身者であることから学習院にも同時期にラグビーが伝えられたのである。また、初代の日本ラグビー協会会長を務めて戦前のラグビーの発展に大いに貢献した高木喜寛もやはり学習院の出身者だった。

 1899年(明治32年)日本ラグビーの父ともいうべきE・B・クラーク(Edward Bramwell Clarke)が慶応義塾の塾生にラグビーを手ほどきしたのは今から110年程前のことである。クラーク自身の手による紹介によると「私が慶応義塾の私のクラスにラグビーを紹介したのは、彼らが晩夏から冬にかけて屋外では何もすることが無いように見えたからです。冬の野球はまだ行われていなかったし、若者たちは時間と秋の素敵な天気を無駄にして、のらくらしていたのです。私はもし彼らにラグビーへの興味を覚えさせられたなら、午後の自由時間にあんなに退屈しなくてもすむだろうと思いました。私の日本語は間に合わせ程度のものなので、知っている言葉の数もごく少なく、ラグビーの細かい点まで説明するわけには行きませんでした。そこで私は友人の田中銀之助に援助して貰うよう依頼しましたところ、彼は喜んで非常な熱意をもって事に当たってくれ、こうしてゲームが始められたのです。今世紀の始め、仙台ヶ原で普通の靴を履いて練習した頃には、30年後に君達がプレーし、日本全土に普及し、日本チームが外国チームと対等に戦って、これを破るとは思っても見ませんでした。」(これは昭和6年に慶応義塾大学が30周年の記念としてYCACと記念祭を行う時に当時京都帝大で教鞭をとっていたクラークに招待状を送ったところ辞退の返信として届いたものという~慶応蹴球部100年史による)

 クラーク氏は当時新任の英語教師であった。彼は明治7年(1874年)に横浜で生まれた。父は当時渡来した英国人に常食のパンを製造して販売するパン屋さんだった。横浜のクィーンズ・ビクトリア・パブリックスクールで一年半学んだ後、ジャマイカの大学を経て1893年に英本国に帰り、ケンブリッジ大学のカーバス・クリスティ・カレッジに入学した。1897年まで文学、法律を学ぶかたわらラグビーやクリケットの戸外スポーツを楽しんだ。その際横浜時代の友人である田中銀之助と再会している。そして卒業後は第二の故郷である日本に戻り、1899年(明治32年)に慶応義塾大学予科の語学講師に就任した。クラーク氏は1910年まで慶応義塾大学教授で、その間に旧制第一高等学校の講師も兼ね、そのあと東京高等師範(現:筑波大)の講師を経て1913年に旧制第三高等学校の講師となり1916年に京都帝国大学英文科教授となって1934年(昭和9年)に現職のまま61歳の生涯を終えている。

 クラーク教授とともに協力者としてラグビーの発展に努めたのが田中銀之助である。祖父は明治初年に開国の好機に乗じて生糸貿易で財を成した「天下の糸平」こと田中平八でで、銀之助は明治6年1月20日平八氏の養子の菊次郎の長男として誕生した。明治17年に学習院初等科に入学している。丁度11歳の時であるから5年編入くらいではないかと思われるが、その前に横浜のパブリックスクールに通っていてクラーク氏と知り合ったのではなかろうか。幕末に英国留学したこともある平八氏の遺志を継いで明治20年学習院在学中の14歳の時に英国に留学した。英国のパブリックスクールを経てケンブリッジ大学のトリニティーホール・カレッジに学び、かねて横浜で知り合ったクラーク氏と再会するのである。そしてともにラグビーを楽しんだのだという。在留8年を経て帰国した銀之助は家業の田中銀行を皮切りに、北海道炭鉱汽船、田中鉱業の経営者としても敏腕を振るうと同時に私財を投じて赤坂に体育クラブをつくるなど、ラグビー以外のスポーツ振興にも力を尽くした。こうした時に旧知のクラーク氏から頼まれて本場英国ラグビーを慶応義塾に教えることとなったのである。しかし相手が居なくては試合も出来ない事からかつての母校の学習院にもラグビーを教えた。

 慶応でクラーク氏から直接ラグビーの手ほどきをうけた草分けの一人である松岡正男氏(昭和5年当時日本ラグビー協会副会長)は協会の機関誌「ラグビー」の創刊(昭和5年10月)にあたり「回想」と題してラグビー発祥の頃を振り返っているがその中で「田中銀之助氏はラグビーの普及を計画され、まず氏の母校である学習院にこれをすすめ、海江田氏と私は田中氏に招かれ学習院の人々と同氏邸で西洋流正式の晩餐の饗を受け、少なからず面食らった事もその頃の思い出である。私は明治37年に卒業した」と記している。

2.輔仁会設立とラグビー活動の始まり

明治30年代の学習院は四ツ谷時代で学校は四ツ谷尾張町(現在の四ツ谷1丁目~迎賓館の前あたり)にあった。麹町三年町(虎ノ門の工部大学跡)から四ツ谷に移動したのは明治23年のことだが、慶応にラグビーが持ち込まれた明治32年頃は近衛篤麿院長の時代で、このあと菊池大麓院長、山口鋭之助院長と続くのである。当時の学習院は武課として体操・教練のほか剣道・柔道・弓道などが行われていたが、明治22年に学生全体の中心機関として輔仁会が創設されその中で文化部と運動部が活動していた。運動部としては野球部などとともに競走部(或いは徒歩部とも称した)として明治32年ころに活躍していたのは海江田幸吉、三島彌彦、安藤直雄、黒田長敬、西郷豊二、柳谷午郎、松方金次郎といった面々であった。

 三島彌彦は警視総監であった三島通庸氏の5男として明治19年2月23年に生まれており明治40年に高等科を卒業、東京帝国大学に進学している。また明治45年にはストックホルムで行われた第5回オリンピックにマラソンの金栗四三氏とともに短距離選手として出場し100m・200m・400mに出場している。慶応の田辺九万三氏(第2代日本ラグビー協会会長)のメモに、「学習院より4名習いに来る。三島、柳谷ほか2名」という記述があるというが、この三島彌彦、柳谷午郎等であることは間違い無い。柳谷午郎は明治37年に高等科を卒業しているので慶応に練習に行ったのはそれ以前の事だったのであろう。当時の学習院は全校565名(明治40年)そのうち高等科の生徒は60名程度と考えられるのでラグビーに15名のメンバーを集めるのはかなり困難だったのではないかと推測される。もっとも当時の運動部は各部の中から足の早い者、身体の大きい者等を適宜集めて試合を行っていたので、競走部の選手を中心にラグビーの練習も行われていたとみえて明治38年5月20日付の時事新報にも「昨年ころからラグビーを練習している」との記事が載っている。(下図)また、明治40年頃には慶応の選手による一高や学習院に対する普及活動が行われたという記事もある。しかし残念ながら目白に移転した明治41年の8月頃から大正にかけてこうした学習院のラグビーに関する記事等は見当たらなくなってしまうのである。


3.田中銀之助氏と高木喜寛氏

慶応義塾蹴球部がラグビーの渡来10年記念祭を祝って1909年(明治42年)11月11日に「ラグビー式フットボール」を発刊しているが、その第1編総論第3章で「クラーク教授とともに忘れべからざるは同教授の学友にして剣橋(ケンブリッジ)大学に日本人プレーヤーとして勇名さくさくたりし田中銀之助これなり。田中氏は熱心なる吾人の奨励者なりき。その初めフットボールはなおいまだ慶応義塾体育会に加えられずして出費の負担到底我ら学生の耐えあたわざる時に当たりてや、氏はしばしばボールを吾人に恵まれ推奨はなはだ勉められたりき。今なお、対外試合あるごとに、あるいは作戦上の注意、あるいはグランドにおけるタクチックについて精細なる忠告を吾人に与えられる。氏は明治32年以来日本におけるラグビーフットボールとは離れるべからざる関係を有し、その発達史を草する者必ずやその名を逸すべからざるなり」と日本ラグビーの物心両面にわたっての恩人であることを強調している。

 ラグビー創設時のメンバーが初めて使った楕円球は田中銀之助から寄贈されたボールだった。当時ボールは貴重品でボール1個が27円から28円で「シルコック」社製だったというが、田辺九万三氏によると「ラグビーのボールは『シルコック』だけだとは思っていなかったが、少なくとも最もポピュラーなものであると考えていた。しかし英国へ行って驚いたことは国際試合や著名な試合で使われているボールは『ギルバート』製のものが一番多く、ボール製造業者の広告にも『シルコック』は見当たらない。調べてみるとこの会社は靴と鞄を主として製造している会社であった。しかしこのボールは『ギルバート』に比べて丸みがやや多くいかにもふっくらとした型をしており、薄い紫がかった上品な色合いと共にいまも忘れることの出来ない親しみを持っている」と感想を述べている。年間の部費が160円程度の時代であるから終戦直後の頃のボール事情と似ている。当然学習院にも田中銀之助からボールが寄贈されており、それを使って練習していたのである。

 初代日本ラグビーフットボール協会会長の高木喜寛は明治7年11月1日高木兼寛氏の長男として生まれた。兼寛氏は海軍軍医総監にすすみ、脚気治療法の新発見等の功により男爵を授けられ、喜寛は大正9年に襲爵して華族に列した。明治16年学習院初等科に入学し、明治23年6月中等科の5年のときに英国留学を志し、24年ロンドン・キングス・カレッジに入学、27年セント・トーマス医科大学に進み、31年産婦人科、32年内科、外科を卒業、カレッジ及び医科大学在学中にラグビーに親しみ、卒業後34年までセント・トーマス病院の外科当直医として勤務するかたわら、同病院のラグビークラブのメンバーとしてプレーした。35年、在留12年の英国を去り、欧米視察を経て帰朝したが、そののち東京病院副院長、東京慈恵会医学専門学校教授を歴任、のち一貫して終戦前後まで慈恵医科大学の学長、病院長などの枢要の地位にあって名誉学長として没するまで、その経営ならびに臨床医として、寧日なく働いた。貴族院議員のほかに就任した名誉職は数知れぬ多数に上っている。

 昭和3年田中銀之助の辞任の後、推されて関東ラグビーフットボール協会会長に就任、つづいて設立された日本ラグビー協会の初代会長となり、昭和22年1月22日に狭心症のため自宅で病没するまで25年の長きに亘って、忠実にその任務に当たった。田中銀之助が慶応ラグビーを育てつつあった明治36年頃、田中の勧めにより、しばしば三田綱町のグラウンドに現れ、ともにラグビーを楽しんだが、会長就任後はあらゆる試合や会合に臨席して、細事にとらわれず、大局的立場から日本ラグビー界の融和と発展に尽くし、協会の運営を円滑ならしめ内外に厚い信望があった。享年78歳であった。

昭和3年を学習院輔仁会ラグビー部の創立と決定したこと

ラグビーのメッカと言われる秩父宮ラグビー場は学習院と特に密接な関係を持っている。ラグビーを殊の外愛され、その発展の為にお心を配られた秩父宮様は明治35年6月25日午前7時30分に青山御所内御産殿で皇太子嘉仁親王(大正天皇)の第二皇子としてご生誕になった。ご命名は雍仁(やすひと)淳宮と称された。明治42年4月、学習院初等科に入学、大正4年に卒業、中等科に進学され大正6年に陸軍幼年学校に入られた。

殿下は昭和26年に日本ラグビー協会の機関誌にご寄稿された中で、「十指にあまるいろいろなスポーツに手を出しながらついにプレーする機会の無かったラグビーだが、一度の見物で魅了された。僕の初めて見た大正12年頃のラグビー風景はいまだに忘れられない。三田や戸塚の霜解けのひどいグラウンドで泥にまみれて大きくなったボール、パスやドリブルも満足に出来なくなったボールを争う泥だるまのストラグル。これを見る人もほんの僅かで、僕の為には椅子が用意されていたが、スタンドも無く、みんなサイドラインに沿ってボールの動きにつれて右、左に移動した。それが昭和になって、逐次盛んになり万を数える観衆を集めるに至った。戦前はラグビー専用のグラウンドは花園だけであったが、戦後のあの混乱のなかで、名古屋、東京に専用のグラウンドが生まれ戦前にも増して全国的に普及に向かいつつある。まったく隔世の感に打たれるというほかはない。

ラグビーは世界のスポーツの国、英国で生まれ、そして育った。いわばスポーツのなかのサラブレットといえよう。そのよき伝統は日本に渡来し正しく継承され、日本スポーツ界においても特色ある存在である。その特色効能について一度もラグビーのボールを蹴ったことのない者が述べるのは、かえって贔屓のひきたおしになるおそれがあるのでラグビー界のかたにお任せする。僕はラグビーのファンとしてまた協会の関係者の一人として今日の隆盛を心からよろこぶものだが、人間社会はとかく逆境のときより順境のときに問題は起りやすい。機関誌の発行によって、立派な伝統を正しく推進しつつラグビー界の団結と競技の普及に役立てるという使命を果たし、ラグビーの躍進が続くことに大きな期待をかけるものである・・・」と述べられている。

 殿下は昭和28年1月4日午前4時30分に50歳の若さで亡くなられたが、生前スポーツの宮様といわれ、好んで庶民の間に姿を見せられる明るい典型的なスポーツマンであられた。少年時代から野球、テニス、卓球、陸上競技、スキー、スケート、ボート、乗馬からローラースケートに至るまで自ら体験された。そのなかでも特にご自身でもご経験豊富だったのが、登山、スキー、ボートであった。ラグビーはいわばファンとして親しまれたのであるが、ご留学中はしばしば本場の国際ゲームを観戦され、ご帰国後は大学対抗戦、東西対抗、外国チームの親善ゲームを寸暇をさいてご覧になり、ラガーマンを激励された。花園ラグビー場は宮様のご発言がもとで建設が実現され、秩父宮ラグビー場の着工にもご病身を押して現場に来られ、その完成の促進にお力添えをされたのである。昭和22年9月日本ラグビーフットボール協会の総裁に迎えられたが、ご逝去の時までラグビー界の象徴で、亡くなられたあとは妃殿下がご遺志を継がれて外国チームの来日の際はほぼ毎回、試合場や歓迎会場にご臨席になり直々に記念品を手渡されたのであった。

 秩父宮様の名前を頂いた東京ラグビー場は戦前女子学習院のあったところである。昭和20年の終戦で、ラグビーのビッグゲームの行われていた神宮競技場(現在の国立競技場)は米軍に接収され、ナイルキニック競技場と名称も変わったのだが、昭和21年に復活したラグビーもグラウンドを奪われて後楽園や神宮球場を借りてゲームを行っていた。これでは困るというので当時の関東協会の理事の間で専用グラウンドの建設の話が持ち上がり、伊集院浩(毎日新聞社 明大OB 昭和7年の7人制優勝時の本院コーチ)が奔走して現在のラグビー場の場所である女子学習院跡の敷地が見つかり、OB連中が時計やカメラ、絨毯まで手放して金を集め、取りあえず集めた30万円で昭和22年に着工したものである。工事が始まってからのある日御殿場の療養先から秩父宮様が現場に来られて、雨の降る中をご病身にもかかわらず、ゴム長靴をはかれてお歩きになり、工事中の鹿島建設の関係者に「ラグビー協会は貧乏だからよろしく頼むよ」と頭を下げられたという。昭和22年11月ラグビー場が完成し、豪州とニュージーランドの軍隊の対抗戦が行われた時にはまだ土のグラウンドで芝は植えられていなかった。宮様が亡くなられてあとご遺徳をしのんで秩父宮ラグビー場と改称されたのである。

昭和3年を学習院輔仁会ラグビー部の創立と決定したこと

昭和51年、それまで明確でなかったOB会をきちんとした形でまとめようという動きが出て、12月15日に鈴木素雄先輩の提唱により小田急ビル代行㈱で世話人会が開かれ、それまで随時開かれていたOB会を組織立ったものとすることとした。さらにこのOB会の第一回総会が52年7月8日に霞会館で開催された。

そして当時超OBと言われた方々を集めて創立を何時と決めるかといった話から創立当時の話を聞くという座談会が持たれた。昭和3年1月28日に成城学園高校と試合をした記事が東京日日新聞に載っておりこれを最初とすると昭和53年が丁度50周年となることから50周年の記念総会を実行しようということが基本となった。
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